正教会Q&A




このコーナーでは、今まで司祭が受けた質問の中で主に未信徒の方への回答を掲載しました。
正教会の伝承に基づいていますが、教会全体の見解を代表するものではありません。



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【質問】

聖書が書かれたのは何千年も前とのことですが、そんな昔に伝えられた教えが、はたして現代に通用するのでしょうか。 現代的なアレンジも必要と思うのですが、正教会ではどのように教えているのですか。

【回答】

 新約聖書に含まれる文書は大半が紀元一世紀に書かれたものです。したがって、現代では一九〇〇年以上を経ていることになります。 旧約聖書の起源はそのさらに数千年前にさかのぼりますので、人間の歴史上に残されている文献の中でも最古に属することは間違いありません。 いつの時代を境にして古いか新しいかを判別する客観的な目安はありませんが、聖書が人類史上群を抜いて古い文書に属することは間違いないでしょう。 内容に関して「時代おくれの文書」と思われることも、無理なからぬ面があるように思われます。
 しかしながら、本当に古くさくて非現代的な文書ならば、なぜ様々な歴史上の動乱や戦乱を超えて現代まで保存されてきたのでしょうか。 「聖書が現代に通用するものかどうか」の回答は、現代に至るまで聖書が継承され続け、なおかつ海を越えて広く世界中に読み続けられている事実に見いだせると思います。 聖書を「永遠のベストセラー」と評する世俗的な見方がありますが、 その背景にはどのような時代・地域にも、聖書のメッセージが現代的でありつづける事実があるために他なりません。
 一方において、聖書ほど誤解と偏見をもって語られる文書もないように思われます。 基本的に聖書は倫理書でも知恵書でもなく、物語や歴史書でもありません。 それらは聖書の本質ではなく側面に過ぎないものですが、聖書に対する無知と偏見に基づくほどそうした見方が強調されやすくなります。 聖書の時代設定は当時をそのまま伝えていますから、その点だけを見れば確かに古くさいものと映るでしょう。 また、現代思想の産物とも言える唯物論や人間中心主義の見地に立って、聖書の出来事を合理的に説明しようとする動きがあります。 聖書には奇跡が多く登場するためですが、それらはどのような説明に落ち着いても共通して結果的に神の否定、聖書の史実性の否定に帰結するため、 「当時の低い科学と知識の産物」との見方につながるようです(奇蹟については、また改めてお話しましょう)。
 聖書が「信仰の書」であることは多くの人に理解していただけると思いますが、その視点に立てば人間の本質は時代や地域の違いに関わらず、 根本的に変わらないものと言えます。聖書を読むことで感じ取れることは、むしろその点ではないでしょうか。 また、正教会ではこの信仰の書を「祈りの書」として受け止めてきましたが、それは聖書の主題が神と人間の関わりにあることの反映といえます。 教会では実際に聖書の言葉で祈り、神を讃美し、その教えに基づいて奉神礼が行なわれるわけですが、 永遠である神に捧げる祈りが時代と共に変化することはナンセンスと言えるでしょう。
 「現代的なアレンジ」が認められるかは内容によるでしょう。 説教の時など、時代や状況設定を考慮して現代人に解りやすく置きかえることはよくされることです。 特に聖書のメッセージを読み解くにあたって当時の習慣や「当たり前」として受け継がれてきた伝統を深く知ることは大変重要な鍵となります。 それらがどのような働きをしてきたかを現代的な言い方で説明することもあります。 しかし、それはあくまで本質を伝えるための「小道具」であり、聖書の根幹が損なわれないことが前提となります。 現代的思想に迎合するかたちで受け継がれてきたことを「書き換える」ことはしていません。



【質問】

聖書中にしばしば登場する「天使」は、何のためにいるのでしょうか。また、どんな存在なのでしょうか。 あと、神の権威を傷つけない程度なら、天使に対して祈っても良いのでしょうか。

【回答】

 御質問の中には「聖書に基づいて説明してほしい」との要望がありましたが、確かに聖書中にしばしば登場するように、天使(神使)は実在します。 天使のように肉体を持たない生命を教会は「神(霊)的存在」と呼んでいますが、 彼等の存在は、目に見える世界に様々な生き物がいて世界を豊かにしているように、目に見えない世界にも多くの生命があり、 神の創造と恵みの豊かさを表しているといえます。
 聖書によれば天使は「神の息によって創造され」(詩編33:6)、「絶えず神を讃美し」(イザヤ6:3)、 人間に神の意思を伝える働きをします(ルカ1:11-20)。 また、教会の聖伝は人が洗礼を受けた時から特定の天使がその人と人格的結びつきを持ち、『守護天使』として霊的な攻撃から守る努めを担うことを教えます。 これらを総合するなら、天使は人間と意外と深い関わりをもつ存在であるといえます。 目に見える世界でも生物たちは人間に多くの恵みを与え、多くの事を教えてくれますが、同様な事は目に見えない世界にも当てはまります。 天使は霊的に多くの恵みを人間に与え、その存在は人間にとっても極めて重要であると位置づけることができるでしょう。
 天使の存在の重要性は、特に正教に対する信仰を深めれば深めるほど増して行くものとなります。 なぜなら彼等が持つ特性や能力は、人間が定罪以来失ってきた神(霊)的特質に関わるものだからです。 聖書は人間が大地の塵によって肉体を形造られ、そこに息を吹きかける(つまり天使を創造した方法によって)ことでこの世界に登場したことを教えています (創2:7)。このことは元来人間にも「神を讃美し」「神の言を聞き理解する」という天使的な能力が備わっていたことを意味します。 こうした天使的な能力はアダムの定罪以降化し、預言者などの極限られた人のみが保持するものとなりましたが、 祈りを中心とする信仰生活に参与することで、再び回復可能となります。祈祷の重要性とは「神に讃美を捧げ」「神の言を理解してそれを伝える」という、 人間が元来持つ天使的な能力を回復させる手段であるとも理解できるでしょう。
 さて、聖書を見ると天使に拝そうとした人間は『そんなことをしてはいけない、ただ神だけを拝しなさい』とたしなめられています(黙22:8-9など)。 天使の霊的能力は確かに人間を上回るものですが、彼等もまた同じ被造物であり、神と見なす対象ではありません。 「神の尊厳を傷つけない程度」とは具体的にどの程度をさしているかは不明ですが、天使を神とみなすいかなる行為も間違いといえます。
 ただし、教会は天使にとりなしを願うことは重要と教え、天使を通して神へ讃美を捧げることを奨励します。 毎週月曜日は天使の仲保と守護を祈願する日にあてられており、聖人たちと同様、親しみを込めて天使へのとりなしと讃美が献じられています。



【質問】

人間にとって宗教の大切さを感じますが、一方で恐れもあります。 悪い宗教にだまされないようにしたいのですが、教会の教えとマインドコントロールはどのようにして区別したら良いのでしょうか。

【回答】

 これは大変重要な問題をはらんだご質問だと思います。 現代では価値観が多様化し、文明や社会の進歩が人間にとって必要なものを全て与えてくれると感じている人も多いようですが、 一方で宗教が担ってきた役割を再認識する人も出てきているようです。 しかしながら、このような社会では総じて宗教に関する誤解と偏見がしやすくなり、人は極端な態度を取りがちとなります。 宗教を無用の長物して無視する態度も、実は信仰問題に対してだまさやすい理解を生み出す温床となっていることは指摘しておくべきでしょう。
 ハリストスは、「木の善し悪しは実が証明する」と言っていますが、同じことが信仰にも言えます。 正しくない信仰は必ず破滅と分裂という実をもたらす事になります。 「自分が勝手に信じているのだから、人には関係ない」と言う態度に始まり、反社会的、反家族的行動に走るようになると危険信号です。 マインドコントロールは、何らかの形で「隣人を愛しなさい」と言う教会の教えに反する行動に移る事が多いのです。
 そうした点をふまえ、今までの経験から良くない宗教の共通点として以下を指摘できます。
  1. 多くの場合、カルト的信仰は現世での利益を強調します。  聖書は罪に支配されているこの世で生きる以上、困難は避けて通れないことを教えますが、信仰を持つことで人の欲望を満たせるとする教えは反聖書的といえます。
  2. シンクレティズム(宗教混同)。伝統的宗教の様々な要素を混同した教えは、一部のカルト宗教の大きな特徴です。
  3. べらぼうな奉仕や、法外な献金・御布施。宗教といえども活動する上で経済は大切ですが、目的ではありません。 日常生活に支障をきたすほどの奉仕や献金を義務づける宗教団体には、疑いの目を持った方が無難です。
  4. 熱狂性。熱意と熱狂は異なります。アジテーション的な要素や情感にうったえるやり方で人を抱き込むことは、反教会的です。
  5. 抜けることの困難さ。ほとんどの場合、良くない信仰は人間の自由意思を抑制します。結果として、抜けることが困難か抜けた後が大変となる場合が多い。
 これらは一例ですが、イデオロギーや特定の『考え方』を押しつける態度や、最初から正体を隠して接近してくる信仰は注意が必要です。



【質問】

悪魔(サタン)や悪霊も救われるのでしょうか。

【回答】

 極めて難しい問題です。人間には正確な意味で悪魔に関する詳しい知識は与えられていないうえ、救いは神にしかわからない『神秘』の御業に属するからです。
 悪魔とは自由意思でもって神に反逆した霊的存在(天使)であり、彼のもとには従った多くの霊的存在(一般的にこれが悪霊と総称されている)があるとされます。 しかしながら、彼等は肉体がないため改心できない存在であり、そもそも人間のように『救い』を求めているのかもわかりません。 いずれにせよ私たちが持つ彼等についての知識は限定的であり、救われるにせよ救われないにせよ、肉体を持つ人間と同一ではないことは確かなようです。
 この問題に関しては教会の聖師父達の間でも意見が分かれており、「全く救われない」という人と「神は悪魔さえも救おうとなさっている」とする聖人もいます。 また、「悪魔は通常考えられているほど強力でも邪悪でもない。 彼等は神の容認のもと、人間を試すために働いている」などという見解もありますし、「全ての生き物の救いは、人間が救われる事が前提となっている。 人間が真の意味で救われた時、人間を通じて悪魔も救われるのではないか」という人もいます。 しかし、最終的に誰が救われ、誰が救われないのかは神以外にはわかりません。聖書が沈黙していることは私たちも沈黙するしかないのです。
 残念ながらこの問いに対する確実な答えはありません。 しかしながら、悪魔もまた元々は神が創造した被造物のひとつである以上『生かされている』存在であることは確かです。 人間のそれとは異なっても、神は悪魔に対しても何らかのはからいをし、居場所を与えていることは確かだと思います(マト8:28-38)。 そのはからいが一時的か恒久的か、あるいは『救い』といえるものかはわかりませんが、悪魔にふさわしいものであることは確かでしょう。



【質問】

教会では祈りの中で神のことを『父』と呼んでいますが、なぜなのでしょうか? ある宗派の人に尋ねたら「聖書が書かれた時代は男尊女卑だったからだよ。神様に性別があるはずがないし、現代なら『父母』とするのが正しい。 実際に自分たちはそうしている」といわれました。なぜ神は『母』 でも『兄』でも『姉』でもなく『父』なのですか。正教会ではどう教えているのでしょうか?

【回答】

 キリスト教とは言うまでもなくイイスス・ハリストスを信じる信仰です。 ハリストスの言葉を、私達は全面的に真理として受け入れます。 ハリストスが神を『父』と教えられた以上、自らの考えを真理とせずにそれを受け入れる立場です。 男尊女卑にせよ、男女同権論にせよ、社会思想が人間の理性の産物である以上、それを絶対的真理とする理由も見当たりません。 社会的イデオロギーと聖書の教えを引きかえにすることは有り得ませんし、正教会とは無関係な姿勢です。
 私たちは聖書の教えを人間の救いに対して普遍的なものと信じます。 もちろん背景としての時代性は考慮すべきでしょうが、本質的に神の言が時代や地域性に左右されるとも思っていません。 どんな理屈であれ、聖書の教えを人間の小賢しい知恵に合わせて書きかえるやり方は、本当にハリストスを信じている者の行為とは思えません。
 神学的に突き詰めれば、神に性別が存在しない、との理解は一面的な真理を含んでいるように思われます。 神の本性は人間を超越したものですから、人間のような性別を当てはめることは出来ないでしょう。私達が知っているような親子関係でもないでしょう。 しかし一方で神は人間に対する計らい(オイコノミア)に基づいて真理を啓示されてきたことも事実です。 ハリストスが神を『父』と呼んだ背景には、ハリストスとの一致を通じて神に交わろうとした時、『父』として神をとらえた方が適っているからといえるでしょう。 主であるイイススが神を『天の父』と呼んだ以上、信徒は神を母でも姉でも兄でもなく『父』としてとらえる事がふさわしいと理解する必要があるのです。
 いずれにせよ、『聖書の言』は私達にとってダイヤモンドのように堅固で貴重なものです。宝石を人造品のガラスと交換する愚かな真似をする気にはなれません。



【質問】

神を『讃める』と言うことが解りません。なぜ神様を讃めなくてはならないのですか。 無理に讃めてもおべっかになってしまうような気がします。神を『讃める』ことと『おべっか』はどう違うのですか?

【回答】

 教会の祈りはみな共通の目的を持っていますが、性格に合わせていくつかに分類されます。 一般的な分け方として、祈りの内容を『祈願』『痛悔』『感謝』『讚美』としてとらえることがあります。 これら祈りの性質に優劣があるわけではありませんが、それでも『讃美』の祈りは他に勝って尊いと見なす聖師父は多いようです。 その理由は色々と考えられますが、まことの『讃美』は神御自身のことを解っている者にしか出来ないからだと考えられます。 神の『仁慈』や『憐れみ』『光栄』『偉大さ』などに触れた時、人は本当の意味で『天使のように』(イザヤ6:2-5)神を讃美できる、ということではないでしょうか。
 「『讃美』が『おべっか』になりはしないか」とのことですが、おべっかは相手を喜ばせるためのものですが、讃美とは目的も本質も異なるものです。 おべっかの目的は自分の利益や相手への怖れ、へつらいが動機であることが大半ですが『讃美』は打算とは無関係です。 重要なことは、おべっかの根底に『感謝』の念はなく、言葉が本音と一致するとは限らないという点です。 神は全知の方なのでどんなおべっかも通じないでしょうし「自分を讃めろ」と言う要求もしません。 神への讃美は常に神への感謝が動機となるべきであり、言い換えるなら神への感謝が無い人はけして本当の讃美はできないことになります。 自発性のない祈りは、神への『讃美』となりえないのです。 したがって、讃美の祈りが存在することは、天使のように神を知り、讃めたたえた人が教会史上に存在したことを意味しているとも言えます。 言い方をかえれば、最高位の天使セラフィムの境地にまで人間はなり得る可能性を秘めているということです。 したがって、『無理に神を讃美する』というよりも、『本当の神を讃美できるほど自分を高めなさい。神を知る者になりなさい』ととらえる方が発展的ではないでしょうか。
 ただし、『讃美』が偽りとならないよう、絶えず自分の心を監視する姿勢は必要だと思います。



【質問】

教会の牧師さんに「祈れば神は応えて下さる」と教えられたのですが、神様はなぜ私の祈りに応えて下さらないのでしょうか。

【回答】

 神様が自分の願い事をかなえてくれないので「意地悪な方」とお感じのようですが、それは今あなたが求めていることが、 本当の意味で必要ではないからではないでしょうか。
 神は、人間に都合の良い方ではありません。 確かに神は人間に最良のものを与えますが、それは人間の欲望を満たすものではありませんし、必ずしもその人に都合のいいものとも限りません。 主は『からし種ほどの信仰があれば山も動かせる』と言い切りましたが、「祈りがかなえられない」とは、 結局それが本当の信仰に基づいていないということではないでしょうか。
 そもそも、祈りとはどうあるべきなのでしょうか。 教会では、真の祈りは神・聖神(聖霊)の導きによってのみ得られると教えます。 聖神は洗礼を受けた時に与えられますが、逆にいえば洗礼を受けずして本当の祈りを身につける事はかなわないことになります。 あなたは未信徒のようですが、もし本当の祈りを学びたいのでしたら、今までの人生を方向転換し、 洗礼を受けて「一生かけて本当の祈りを学ぶ」道にはいること(つまり、正教の信徒になること)が先決かと思います。



【質問】

私が所属する教会(ローマ・カトリック)と正教会が離反していることがとても残念なのですが、正教会は他教派に対してどのような見方をしているのでしょうか。 教会合同について神父さん個人のお考えを聞かせて下さい。

【回答】

 東西教会の問題でいろいろお考えのようですね。『お考えをお示しください』とのことですので、教会の公式な見解ではなく、私個人の見解を中心に返答したいと思います。
 私は個人的に、どの宗教に対しても確執は持っていません。 私の伝道会にはローマ・カトリックやプロテスタントの方も来て学んでいましたし、他教派の人を批判する気もありません。 また、正教の正当性を『自己主張』して、押し付ける気にもなれません。
 こうした点をふまえても、現時点での教会合同は難しいと考えざるを得ません。 あなたが主張されるように東西教会の分離は悲しむべき事態には違いありませんが、そうなった理由は明白だからです。 また、教会一致を目指して『エキュメニカル運動』と称する動きも出ていますが、その目的は正直な所見えません。 『エキュメニカル』の本来の意味を考えた時、教会の一致とは『聖使徒の教えの正しい継承』の上に根差すものと考えます。 それは『歩みより』とか『仲良く』といった人間的レベルの問題で語れるものとは思えないのですが、 この点に関してはエキュメニカル運動を推進する人達の見解を逆に聞きたいくらいですね。
 歴史的に見れば、本来聖使徒が伝えた信仰がどこにあるかは明白と思います。 問題は、『なぜ教会が別れるに至ったか』と言う現実問題に目を向けず、『教会合同』とか『エキュメニカル運動』などと虫の良い事を言い、 教会の一致を人間的レベルで解決出来ると思い込む態度にあると思います。 もし、自分たちの宗派が本当に『本来の聖公使徒教会の教え』に根差していると信じるならば、安易な『教会合同』などに目を奪われるべきではありません。 臭いものに蓋をするかのように『同じキリスト教ですから、どこも同じです』と言う現実を無視した態度は、 かえって教会一致を妨げる大きな要因にすらなっていると思います。
 なぜこんな事を言うかというと、私の知る限りではこうした態度をとるキリスト教関係者は大変目立つからです。 個人的には、多少排他的であっても自分の信仰にまっしぐらな他教派の人に好感を覚えます。信仰に対する『熱くも冷たくもない態度』(黙3:16)は、感心出来ません。
 私は正教会の司祭ですので、正教こそは聖使徒の伝承に最も忠実な信仰であると信じています。 『もし、右の目が罪に陥るならば、くりぬいて捨てなさい。全身が地獄に落ちるより、体の一部が失われた方が良いからである』(マト5:29)。 この主の教えに従い、正教会は大きな代償を払いながらも純粋な信仰を守るために厳しく戦ってきました。 そうした『教会の痛み』をよく知っていますから、安易に『教会一致』など語れないと思っています。 そして、正教会が自らの立場を譲らない事こそ、本当の聖使徒の教えを現代人が見失わない唯一の道だというのが私の立場です。 現代社会において、聖使徒の真の教えを示せるのは正教会だけだと信じているからです。
 ですから、他教派一人一人の信徒に対しては愛と寛容さをもって接したいと思う反面、正教の正当性には固執したいと考えています。 私は自分の元に来た他教派の人には、けっして『キリスト教会は皆仲良くすべきだ』といいません。 『キリスト教が様々な宗派に別れているのは現実であり、それなりの理由がある。その現実から目をそらすべきではない。 そして、正教こそ本来のキリスト教であると確信しているから私はここにいます』と教えています。ここでも、同じことを伝えたいと思います。
 以上が、教会合同に対する私の意見です。
 ただ、あなたが言われる『教会一致のために祈りたい』との思いは貴重だと思います。 正教とローマ教会が取り返しがつかないほど別物になってしまった現実から目を背ける事は出来ませんが、互いのために祈る事を神は容認されるでしょう。 教会が分かれている事は必然だとしても、憎しみ合うことは主の教えに背くことです。



【質問】

正教会について知ろうと思い、色々と本を読みあさりましたが、書かれてあることがみな食い違っているように感じました。どれを信じれば良いのでしょうか。

【回答】

 日本という国は、本当に不思議な国だと思います。たとえば医師でもない人が医学について本を書き、あれこれ病気の説明をしても、誰も見向きもしないでしょう。 『おまえは医師でもないのに、医学のことが解るものか』と、一蹴されるに違いありません。
 ところがこと宗教になると、聖職者でも信徒でもない人々が『何処々々大学の○○教の専門家』という肩書きをぶら下げ、 平気で宗教の解説本などを書き下ろして通じる社会なのです。宗教問題に対して、日本人は極めて無頓着でだまされやすい国民であると言えるでしょう。
 ですから、あなたが多くの書物に触れて『書かれてあることがみな違う』とお感じになったのは、 正教会に無知な人が正教のことをあれこれ説明している現状に原因があります。 結論から言えば、極一部の例外を除き、現在日本国内で市販されている書物の99パーセントは、正教を理解する上で役に立たないものである、とお答えするしかないでしょう。 残念なことですが、これが今の日本の現実です。これは正教のみならず、他の宗教についても言えることではないでしょうか。
 したがって、本当の意味で正教について知りたいと願うならば、実際に教会の門戸をたたいて訪ねるしかありません。 そこで実際に祈りにふれ、教えを乞うことをお勧めします。信仰は観念的理解よりも体験的に知ることが大切なので、書物で全てを知ろうとしても無理があるのです。 ギリシアやロシアなど、正教会の伝統が深い地域に行き、そこにある教会・修道院に巡礼されることもお勧めです。 このような場所にはユネスコの世界遺産にも登録されている建造物も多く、実りある体験をすることも可能でしょう。 本当の信仰とは、体験的にしか悟り得ないことが実感できるはずです。
 その他、教会自体が出版している小冊子や本もあります。中には市販ルートにないものもありますので、お問い合わせ下されば案内します。 この場合も書物をあくまで参考の域を出ないものであることは知っておく必要があります。



【質問】

単刀直入に聞きます。地獄へ落ちる人とは、どのような人なのでしょうか。また、天国に行ける確実な方法はありますか。

【回答】

 人間が天国を得るためには二つの要因が必要となります。ひとつは人間自身が『神にふさわしい者』になろう』とする努力であり、もう一つは神ご自身が賜る恩寵です。 両者は手段と目的の関係にあり、人間の努力は天国を得る最終目的には成り得ません。 『神にふさわしい者』になるための努力としては祈祷、斎、様々な施し、善行を身につけることなどがあげられ、これらを怠ってよい理由はどこにも見当たりません。 それでも尚、私達が天国を得る最大要因は、神の御旨と言う神秘に委ねられます。 サロフの克肖者聖セラフィムの言葉を借りるなら、『祈祷、斎、そして全ての善行はそれ自体尊いが、目的ではない。 信仰生活の目的とは、神・聖神を獲得することにある』ことになります。
 救いが恵みによって与えられるものである以上、『天国に行ける確実な方法』は存在しないと言ってもよいでしょう。 逆説的な言い方をするなら、真の祈祷、斎、善行を実践する人は常に『まだまだ不十分。自分は神の前に至らない』との思いを抱くことでしょう。 この時初めて、人は『天国に遠くない』と言い得るかもしれません。
 同様に、正教会では地獄へ落ちる要因も計り知れない神秘に属することを教えます。 救いが神の恵みに多くを由来するものであるならば、どんな極悪人でも救われる可能性は残ることになるからです(ルカ23:39-43)。
 しかしながらそれを前提とした上で、教会の聖師父達は、限りなく地獄に近い危険な道が存在することを警告してきました。 そのいくつかをあげておきましょう。

  1. 異端や呪術に手を染め、自分自身と人を惑わす者。 特に教会は『罪に定め、またこれを解き赦す』権限が与えられていることから(イオアン20:22-23、マトフェイ18:18)、 教会から異端宣告を受けても改心せず、破門宣告を解かれない者は、『第二のユダ』として著しく地獄に近いとされる。

  2. 自殺者。特に正教の信仰を持ちながら自殺に走った者は、『生命を給う』神・聖神を穢す罪(マトフェイ12:31-33)を犯したとして、極めて地獄に近い者とされる。

  3. 幼児を殺害する者。これは、堕胎も含まれる。日本の刑法では大抵の場合、幼児殺害は成人のそれより刑が軽いが、教会の教えでは全く逆。 これと並び、幼女を性的に穢す者は『神を殺す』罪を負うとして重罪とされる。

  4. 子供に洗礼を受けさせずに死なせてしまった親。 配偶者の場合、片方の信仰によってもう一方が清められる可能性が残されているが(コリンフ前7:14)、 子供に対しては、親は将来の自立に備えて定罪から解放する洗礼を受けさせる義務を負う。 不可抗力な理由なくこれを怠った時、『生命に至る道を人から盗む者』として深い負い目を担う。子供にあえて異教の習慣や、まじない等を教えた信徒も同様。

  5. 聖職者や修道士を殺害すること。特に御聖体を信徒に分け与える神品を殺害することは、救世主と信徒の間を割く行いとして、異端者に等しい重罪となる。 聖務を出来ない程の手負いを与えることも、『殺害に等しい』とされる。




【質問】

正教会が、ローマ・カトリックやプロテスタントと違う用語を用いているのはなぜですか。

【回答】

 これにはいくつかの理由があります。主なものを三点に分けて説明しましょう。
 第一に、聖典や祈祷書の原典の相違があります。
 たとえば、聖書は正教会では伝統的にギリシャ語の原典を使用していますが、ローマ・カトリック教会は伝統的に「ウリガダ」と呼ばれるラテン語聖書を用いてきました。 元来「ウリガダ」もギリシャ語から翻訳されたものですが、ラテン語に置き換えられた時細かな表現に違いが生じたようです。 最近、日本ではローマ・カトリック教会もプロテスタント教会と同じ日本聖書教会の聖書を使用していますが、このうち旧約聖書はヘブライ語を底本としています。 しかし、正教会では初代教会時代から聖使徒が使用したギリシア語の旧約聖書を用いてきました。 また、日本正教会では地名や人名は発音がスラヴ語に基づいています。そこで、ヨハネ(日本聖書教会)=イオアン(日本正教会)と言うような違いが生じました。
 第二に、翻訳した人の違いがあります。
 明治期、キリスト教の各派はそれぞれ異なる翻訳者が聖書を訳していましたが、翻訳方針と言葉使いに違いがあったようです。 日本正教会の翻訳に貢献した一人である中井嗣麻呂と言う人は、当時最高の漢学者でした。その訳書は、現代でも祈祷の現場で実際に用いられています。 ですから、正教会の聖書や祈祷書は、他に比べて漢字が大変きめ細かく使い分けられている特徴があります。
 第三の理由は、信仰上の解釈の違いから生じたものであり、これが最も重要な理由といえます。
 正教会とローマ・カトリック、プロテスタント諸教会の間には、伝統的に聖書理解や教会のあり方等に少なからず違いがあります。 その中には原罪の理解、生死観、救いの解釈、聖体礼儀を始めとする祈りと人間の関わりなど、信仰のあり方を左右する重要なものが含まれます。 当然、同じ原語をもとにする用語であっても、翻訳に少なからず違いが生じることになります。 この場合、相違を明確にする必要性から、あえて違う言葉を用いた事例も存在します。 用語の相違の代表的な例として、聖神(正教会)=聖霊(他教派)、生神女(正教会)=聖母(他教派)、神成(正教会)=神化(他教派)等があげられますが、 こうした伝統的理解の違いは、聖書本文の翻訳にもいくつか反映されています。

(ロマ書5:12) 故に一人に縁りて罪は世に入り、罪に縁りて死の入りしが如く、死も亦悉くの人の中に入れり、蓋彼の中に在りて皆罪を犯せり。(正教会訳)。
このようなわけで、一人の人によって罪が世に入り、罪によって死が入り込んだように、死は全ての人に及んだのです。全ての人が罪を犯したからです(新共同訳)。

(創世記1:26) 神、曰えり、人を我等の像と我等の肖とに従いて造るべし・・・(正教会訳)。
神はまた言われた、「われわれのかたちに、われわれにかたどって人を造り・・・(口語訳)。

(申命記32:14) 麦のき者を之に食はせたり、爾は亦葡萄の血たる酒を飲めり(正教会訳)。
極上の小麦を与えられ、深紅のぶどう酒、泡立つ酒を飲んだ(新共同訳)。

 こうした事例は伝統的理解の相違から生じたものであり、明確な意味の異なりがあるものといえます。 このような聖書解釈や神学の深い部分に対する相違が、祈祷、聖堂の構造、聖歌、信仰生活、教会のイメージなど、 可視的な部分に少なからぬ影響を与えていることは指摘しておかなくてはなりません。



【質問】

神は宇宙を創造される以前から、ユダの裏切りや十字架を予定されていたのでしょうか。 また、誰が信仰を受け入れるか、受け入れないか、救われるか、救われないかは、運命で決まっているのでしょうか。

【回答】

 この考え方は、明確な間違いです。宇宙は、最初からある運命のもとに定められているわけではありません。 これは、人間ひとりひとりの人生についても言える事です。 このような考えかたを「予定説」と言いますが、これはもともと旧約時代にも教会の伝統にも存在しなかった考え方であり、正教会では明確に異端として退けています。
 「予定説」が誤りである最大の理由は、「神が人に自由意志を与えた」と言う聖書の真理に反する点です。 「意志」とは聖書的には単なる選択能力のみをさすものではなく、人生を固有のものとして創造して行ける能力、また生きる方向性としてその人が何に交わるか、 何と合意するかを築き上げる力と言えます。従って、生活習慣を含めた生きる姿勢そのものが自由意志の具体化であると言えます。
 元来、このような自由意志は神のみが所有するものですが、「神の似姿」を持つ存在として、人間にも恩寵の賜として与えられたものでした。 アダムの定罪によって死に伏した人間の「自由意志」は限定的なものとなりましたが、それでも依然として残されているものです。 従って、人間はロボットやからくり人形のような存在ではなく、救いや信仰に対しても自由と自己責任を担った存在となります。 この、人間の自由意志の意義を減殺するとらえ方は正教会の伝統にはありません。
 ただ、神は人間には計り知れない「全知」の方である事も確かです。 この世界が始めから予定されたものでなく、一人一人の人間の人生が自由意志に任されているとしても、どのような方向に行くか、神はあらかじめ御存知でしょう。 神はユダの裏切りやハリストスの受難に加担した多くの人を定められていたわけではありませんし、彼等は神の「計画」の協力者ともいえません。 しかし、そうなる事はあらかじめ知っていたでしょう。もっと言うならば、人間が罪を犯して救いが必要な状態になるであろうことも御存知だったでしょう。 ですから、仁慈に基づく計らいとしての救世主の十字架、死、復活は神の御旨の中にあったといえます。 ハリストスが予め十字架に供えられた「」であることは、むしろこの神の「全知性」を示唆するものとなります。
 神は全知の目で全てをお見通しになられますが、人間のあらゆる不幸は神が計画したものではありません。この点は混同しないように、注意が必要です。



【質問】

「善を行え」「来世では悪は滅ぼされる』などといいますが、この世は善悪二つの要素で成り立っているのではないですか。 だから、悪が無くなると、善もなくなってしまうのではないでしょうか。

【回答】

 『善』と『悪』を対等な原理と見る、いわゆる『対立二元論』的な発想は、聖書的なものではありません。 元々神はこの世を創造された時「全て良し」とされました(創世記1:31)。従って、神が創造されたものは、たとえ何であれ本質的に「善」だったことになります。
 いわゆる「対立二元論」と言う思想は、聖書の真理から外れるものなのです。 悪とは「元々は善であるものが、正しい働きをしなくなった時に起こるもの」であり、実体のないものです。 「元々神は悪を造っていない」と言う聖書が指し示す真理は、私達が知っておかなくてはならない、非常に重要な点です。 ですから、神の国とは「悪が滅ぼされる」と言うよりも「元々善である万物が、あるべき本来の姿に戻る」と言う理解の方が、より正確である事になります。
 したがって、「悪が無くなれば善も無くなる」というあなたの疑問は、はっきりと否定できます。そういうことはありません。 善と悪は「拮抗する関係」でも「相対的な関係」でもないのです。来世では万物が本来の姿を取り戻し、より自然な姿を回復することでしょう。



【質問】

聖書に書いてある奇蹟は、非科学的で信じられません。聖書に記されている事柄は、そのまま受け止めなくてはならないのでしょうか。

【回答】

 結論から言うならば、聖書に記されている事柄は奇蹟も含めて全て史的事実として受け止めるべきです。 たんに「信じられない」と言う理由だけで、根拠もなく否定する態度は知恵ある言動ではありません。 また、現代では科学をたてにとって聖書中の超自然的記述を合理的に説明しようとする人々も大勢います。 その中には、聖書の神話的理解も含まれますが、それらは何らかの形で聖書の史実性を否定する向きが大半です。 はたして、「信じられない」と言う理由だけで無分別に否定する態度が『科学的』にも公正と言えるのでしょうか。 聖書の記述の否定は、それ自体根拠がないものであり「信じられないから」「科学的とは言えないから」「証明されていないから」という、 あいまいで「非科学的」な姿勢に基づいていることがほとんどなのです。
 古来より聖書解釈には寓話的・象徴的な視点もあり、記述の背後にある奥義を読み取ろうとする方向性もありました。 それでもなお、聖書の記述は歴史的事実であることを前提にすべきなのです。なぜなら、奇蹟は神の実在を示す『指紋』のようなものだからです。 ある意味で奇蹟が非科学的なのは、「神の御業」である証拠となるものです。したがって、奇蹟を科学的に解明しようとすること自体無理があると言えます。 超自然的存在である神の足跡を、論理的に説明できるはずがないのです
 むしろ、神はなぜ奇蹟を起こしたのか、その中にあるメッセージを知ろうとする方がより重要といえるでしょう。 神が奇蹟を起こすのは、人間を驚かしたり自分の力を誇示する為に起こすものではありません。 その背景には、神からの何らかのメッセージがあるのです。ですから、奇蹟の神秘性をやたらと過大評価し、そうした「事件性」だけを追い求める態度は間違っています。
 特に現代人は神秘的な事柄に弱い傾向があるので、この点に関しては注意が必要です。 いたずらに神秘性を強調することは、かえって奇蹟の背景にある真意が歪曲される事が多いものです。 神の奇蹟に対する聖書理解は、人を惑わすようなものであってなりません。ですから、教会では奇蹟的事件に対していたずらに口外しないように勧めている事も事実です。
 聖書について正しい理解を求める時、自己解釈ではなく教会の伝統に基づいた見方を勧める理由のひとつもここにあります。 正しい聖書の知識は、奇蹟が神から来るものか、人間の作り事なのかを見極める時に重要なものとなるでしょう。 本当の奇蹟は、人間が神とひとつになり、「神の像」を回復した時、具体的にどのような現象が生まれるかを伝えるものであることが見えてくるはずです。



【質問】

東方正教会は、土着のアニミズムと癒合したキリスト教であると聞きましたが本当でしょうか。また、キリスト教が多神教と融合してもおかしくないのではないでしょうか。

【回答】

 正教がアニミズム信仰と融合した事実は全くありません。それは、定理的にも歴史的にも教会法的にも明白なことです。 正教会は伝統的に現地の言語、生活習慣、気候などに根差した教会のあり方を最良としますが、本質を変えたことはありません。 これは全ての国民が与えられた資質と条件を損なわずに成聖される事を信じるからです。 『本で読んだ』とありますが、その著者がこの『土着主義』を「現地の宗教との融合」と誤解しているのでしょう。
 さて、質問の中には『造られたものには、創造した者の魂が宿っているはずではないか』とありますが、これは一面的には理解できることです。 確かに教会の聖師父達も、神を知る重要な方法の一つに自然への観想をあげていますし、あらゆる被造物は『神の御業の優れた表現者』であると言えます。 その意味で、造られたこの世のものは何であれ、神の御業の神秘を宿していると言えるでしょう。しかしそれは、自然を神そのものとする事とは一線を画します。 この点は、明確な区別が必要となります。
 これは喩えですが、ある人が何か芸術作品を作ったとします。それが素晴らしいと言う事で、作品その物を崇め褒める事は的外れと言うべきです。 讚えられるべきはそれを造った人間であり、まして人格的交流をもちたいと望むなら、造った人自身と接するべきなのです。 作品は作者の技量の一面を知る手がかりにはなりますが、両者を混同する事は出来ません。どんな場合も、作品自体がそれを造った者以上にはならないのです。
 同様に、どんなに素晴らしくても、アニミズムが崇拝の対象とする動物や天体などを、それを創造した神そのものとする事は出来ません。 両者は、同レベルで比較する事は出来ないのです。神が造られた物は大切にすべきかもしれませんが、人格的に交わったり、人間が拝むべき対象ではありません。 聖書は造られた者の中で、人間のみがこの世を「創造した」方と交流できると教えます。 そうである以上、正教において人間が交わり、拝む対象はアニミズムと同じものとはけしてなりえません。



【質問】

いろいろと本を読んで、正教会に関心を持っています。ただ、どうしてもイコンが好きになれません。どうすればよいでしょうか。

【回答】

 御手紙の中には『イコンがルネッサンス絵画のようだったらいいのに』とありますが、イコンは好き嫌いによって判断されるものでも、 鑑賞用のものでもない事を理解する必要があります。少なくとも主観で判断しているうちは、キリスト教の本質を知ることは不可能でしょう。
 イコンに限らず、教会の物品は美術品とは違います。イコンも鑑賞の対象ではなく、祈りをする際に助けとなるものです。 もし、イコンが美術品のように「人の目を楽しませるもの」・・・・たとえばふくよかなマリヤ、美人な天使、感情を露にするキリストなど・・・・であったなら、 本当に祈りの手助けになるでしょうか。そこに入って来るのは、美しいものに酔いしれ、感動する人間的な思いと言うことになります。 祈りは、自分を捨てて神に近づく表明に他なりません。 もちろん、美術品を否定しているわけではありませんが、人間の満足に基づく絵画は、けして祈りの手助けになるとは限りません。 むしろ、妨げになる事が多いのです。
 実際、教会の歴史の中でも西欧画の様式がイコンに取り入れられた時代がありました。 しかし、結局そうした流れは否定の方向に進むことになります。西欧画のような美術品は見て楽しむものではあっても、祈りには適さない事が解ってきたからです。 それは、聖書が小説やドラマのように読んで楽しむものではなく、神様の啓示にふれ、信仰を持つ為のものである事と相通じます。 イコンは別名『色と線で書かれた聖書』と呼ばれているのです。
 イコンを無理して「好き」になる必要はありません。 しかし、祈りの本質を理解するならば、イコンは「祈りに必要な故に置かれるものである」事が次第に解ってくるはずです。 イコンと聖書が同じ本質を持っている事が、この問題を解く鍵となるでしょう。



【質問】

教会は旧約聖書と新約聖書の両方を聖典としていますが、この二書の神が同じであるとは信じられません。 解説書にも『旧約の神は厳しい神、裁きの神。新約の神は赦しの神』と書かれていました。旧約の神は、悪い神なのではないでしょうか。

【回答】

 これは、聖書に関してよく聞く誤謬のひとつです。 旧約と新約の神が全く異なる印象で受け取られ、前者を『厳しく、情け容赦のない裁きの神』後者を『赦しの神、憐れみのある神』と位置づけてしまう点です。 解説書に書いてあったとのことですが、実は学者と呼ばれる人々の中にもこのような短絡的な見解を持つ人がいるようです。 まったくもって驚きを禁じえないのですが、これは聖書の読み方に問題がある事を指摘すべきでしょう。
 御存知のように、旧約聖書には歴史的・物語的な要素を持った書(律法五書や歴代誌等)と、預言書的性質を持った書があります。 その他にも、教訓書(箴言、伝道書等)や祈祷文(詩編など)をそのまま載せているものもあります。 聖書に初めてふれた時、往々にして預言書や教訓書よりも、歴史的な内容の書の方が頭に残りやすくなる傾向があるようです。 新約聖書も分量は異なりますが、同様のことが言えます。 往々にしてハリストスの生涯を描いた福音書の部分は記憶に残りやすく、使徒の書簡に代表されるそれ以外の書は記憶に残りにくい傾向があるようです。 この両者には、読まれる頻度にも大きな差があるようです。『福音書は読んだけれども手紙はまだです』という答えをよく聞きます。 旧約の歴史の部分は、どうしても人を裁く神が印象に残り勝ちとなります。 同様に、福音書だけでは幼子や社会的弱者に優しいハリストスの姿が強く印象づけられやすいのです。
 では、福音書や歴史書以外の神はどうでしょうか。 たとえば詩編の中には、「主は恵み深く、その憐れみはとこしえに絶える事はない・・・」(第136編) 「我、心を尽くしてなんじの恵みを乞い求めたり・・・・願わくは我を憐れみ給え・・・」(第119編)などの文句が目につきます。 もし旧約の神が厳しいだけの神ならば、こうした祈りが出てくるでしょうか。 また、新約の使徒行伝5章にあるアナニヤとその妻の出来事は、どうとらえるべきでしょうか。そこには、厳しい裁きの神が見えないでしょうか。
 これらは一例ですが、旧約の神を厳しい神、新約の神を優しい神と単純にとらえてしまう過ちは、多くの場合、聖書の特定の書を偏重して読む時におこりがちとなります。 そもそも、神の性格は単純に割り切れるものではありません。 新約の神と旧約の神は性格が違うととらえている人は、聖書の読み方や解釈が短絡的で偏っている事が多いのです。



【質問】

聖書には『信じて洗礼を受けた者は救われる。信じない者は罪に定められる』(マルコ16:16)とありますが、 信じそうになってやめた人、途中で信仰を捨てた人、ハリストスを知らずに一生を終えた人はどうなるのでしょうか。

【回答】

 大変難しい質問です。ある人が救われるのか、また救われないのかは、神しか知りません。 なぜなら、『救い』とは完全に神の恩寵に由来するものだからです。人間の良い行いや努力は救いを得る一定の条件ではあっても、根本的原因になりえません。 ですから、この問いに対して明確に答えることは不可能といって良いでしょう。
 ハリストス御自身が、信じて洗礼を受け神とひとつになる事で人間は救われることを教えられた以上、洗礼が救いを得るための避けて通れない門であることは確かです。 ただし正教会では『洗礼を受けること=救われる』という『予定説』に基づいた考え方を、異端的理解として明確に排斥しています。 救いを得る上で洗礼は必要不可欠ですが、洗礼を受けたから救いが約束されていると考えるべきではないのです。
 そうなると、ハリストスを知らずに一生を終えた人や、洗礼に至らずに死を迎えた人は救われないのでしょうか。 この点に関して、救いの御業は個人を通して全体に及ぶものであることと、聖書が節々で「神を信じる者は他人の為に祈るべきである」と教えている点を思い起こします。 アブラハムにしろ、モーゼにしろ、聖書や教会史に登場する義人・聖人達は、いつも他人が救われるようにとりなし、祈った人達でした。 彼等の祈りを通じて多くの人が救われている事実があります。 ですから、信徒の祈りを通じて、ハリストスを知らない多くの人々も救いに与る可能性は残されていると言えます。 しかしながら、これはとりなしに依存するため、受動的な域を出ないものとなります。 未信徒の救いはあくまで可能性として残されているものであり、信徒との関わりに大きく左右されるものとなります。
 信仰を途中で捨てた人がどうなるかは、さらに不明確といえます。別の信者のとりなしや祈りで救われる可能性はあるでしょう。 しかし、自らの意志で救いに至る道を閉ざした以上、可能性は大きく制限されると考えられます。特に主は『あなた方が赦せば誰でもその罪は赦される。 もし留めれば、その罪は留まる』(イオアン20:22)と教えられ、救いに与る上で教会が非常に大きな存在であることを教えられました。 その教会から自分の意志で離れた以上、それなりの負い目を負うと考えられるからです。



【質問】

信仰はないのだけれども才能があり、経済的にも豊で、社会的にも正しく必要とされていた人、良い行いをたくさんしたした人は救われないのでしょうか。

【回答】

 信仰の問題を考えた時、最も生じやすい誤解のひとつは、それを道徳的・倫理的に解釈してしまうことです。 確かに宗教の重要な役割として、正しい倫理を説く事はあげられますが、主題ではありません。 救いはあくまで神の恩寵に根差すものであり、人間的努力や社会的成功に置き換えることは不可能と言えます。 その意味で、信仰の目的はいわゆる『良い人』になることではありません。恩寵に預かるため、あらゆる努力を惜しまないことにあるといえます。 良い人だから救われる、そうでないから救われない、というわけではないのです。したがって、倫理や道徳、社会的通念で人間が救われると考えてはなりません。
 かりに倫理的問題に焦点を当てたとしても、救いが約束されるほどの人間がどれだけいるでしょうか。 聖使徒パウェルは、「神の前で本当の義人はいない、独りもいない」(ロマ3:10)。と言い切っています。 「正しい人」がどのような人をさすのかは色々意見があることでしょう。 しかし、『神が完全であるように、あなた方も完全であれ』(マトフェイ5:48)との命題を前にして、赦しを必要としないほどの「良い人」が存在するのでしょうか。 社会的成功や善行は尊いかもしれませんが、人間が神の赦しなしに完全になれると考えるなら、それ以上の傲慢はありません。 傲慢は、全ての罪の母体となる厄介な代物です。 『社会的に成功し、良い行いをしているからこれ以上必要なことはない。自分は十分救われている』と考えるなら、 むしろ社会的敗者や犯罪者であっても謙虚に赦しを求める人の方が、神に省みられる可能性が高いとさえ言えます(ルカ23:39-43)。
 もし、人間が自分の努力だけで完全となり、救われるのなら神御自身が人となって十字架にかかるほどの途方もない犠牲は必要なかったことでしょう。 この事実を、軽く受けとめることはけっして出来ません。



【質問】

聖書には、預言書と言うものが多くありますね。これらは一頃はやったノストラダムスの大予言などとは違うのでしょうか。

【回答】

 おっしゃる通り、聖書の預言はノストラダムスの予言などで知られているような「予言」とは異なります。 「預言」とは文字通り神の意志を預かる事で、神の言を人間の言葉に置き換えたものといえます。したがって、その本質は時代や環境に左右されるものではありません。 時には未来に起こる事が含まれていたりもしますが、目的は未来の当て事ではありません。
 聖書を通して神が語りかける事は常に救いの御業と結びついています。ですから、預言の先にあるものは、必ず人間の救いということになります。 預言書が何らかの形で、救世主=イイスス・ハリストスと結びついているのもこの為です。このため、預言は必ずしも言葉によるものだけとは限りません。 聖書の中には生活や行いで神の言を顕した預言者も多く登場します。もともとこの世のものではない神の言を伝えるために、預言者達は様々な方法を用いてきたのです。 記述もひとつの方法に過ぎません。
 これに対し「予言」はこれから起こる事を言い当てる事であり、必ずしも信仰や神の意志と関係している必要はありません。 ですから一度的中してしまえば、それでおしまいとなります。本当に予言の能力が存在するならば、それは人間に秘められた可能性であると言えます。 預言と予言の本質的な異なりは、 前者は神から来るものであり、後者は人間の能力に属するものであると言えるでしょう。
 預言は基本的に「神の民」に与えられるものです。 多くの人々にとって預言書が難解である原因は、神の民(かつてはイスラエルであり、現在は教会)の生活習慣になじみがない事に由来します。 預言書はあくまで信仰の書であり、神の民と関わりない人が自分勝手に解釈するものではありません。 現在、この神との関わりの生活は教会の中で存続されています。教会の伝承を抜きに預言書の主旨を理解する事は、困難なのです。 これも「予言」との大きな違いと言えます。



【質問】

教会で神父様は多くの信徒に祈りを奨励されていますが、一度に何億人もの人が祈ったら神様も混乱してしまうのではないでしょうか?

【回答】

 もちろんそんな事はありません。
 確かに神は人々の救いのためにあえて身をとられて人となられましたが、それでも神の能力を人間のそれと置き換えて想定するには無理があります。
 神に向きあう際に私達がまず始めに知っておかなくてはならない事は、「神と人間は本質的に異なっている」と言う点です。 人間も含めたこの世界全ては神によって創造されたものです。 創造主と「創造されたもの」の間には本質的な相違があり、それは無限の隔たりと言って良いほど越え難いものです。 ですから、私達は自分の経験や理解の中で神をとらえるべきではないのです。
 このことは、神について一般的に言われることにも当てはまります。 たとえば「神は全能である」とは良く言われることですが、その背景には「それは私達が考えつくような全能ではない」との前提が存在します。 「神は愛である」とも言われますが、それは私達が知っているような愛ではありません。 同様に「神は聞かれる」と言う時、人間が聞くように聞かれる、と考えるべきではありません。
 神はあらゆる点で人間を超越した存在です。ところが人間は、ついついこの事を忘れて、自分の理解や経験の中で神事をとらえようとします。 このような姿勢は、神と向き合う上で慎まなければならない重要な注意点です。 一度に何億人もの人が祈った時神が混乱するのでは、との疑問もこうした誤謬に基づいているといえます。



【質問】

聖書には、神がこの世を創造されたと書かれてあります。ならば、神がこの世を造られた以前は何があったのでしょうか?

【回答】

 この問いに対して、教会は「神以外何もなかった」と教えます。 こうした状態を「無」と呼んでいるわけですが、結果的に神の創造は「無からの創造」であったことになります。
 「無」とはそれを体験する人間自体が存在し得ないわけですから、人間は本当の意味で「無」を知ることはできません。 つまり、「無からの創造」には「神の創造は人間が知る事ができない神秘である」こと、さらに「神は無さえも超越された方である」などの真理が含まることになります。 この世界は神しか為し得ない神秘的な起源を持ち、それゆえ人は謙遜でなくてはなりません。 『無からの創造』という定理には、神は人間の知恵や経験で知ることができないからこそ神であり、その御業が人間の作業と決定的に異なる、との真意が含まれます。



【質問】

プロテスタントの信者です。正教会に関心があり祈祷に参祷させていただきましたが、あまりにもお祈りの時間が長くて驚きました。 福音書の中でイエス様は『長々と祈ってはならない』(マト6:7)と戒めておりますが、正教会ではこれをどう受け止めているのでしょうか?

【回答】

 祈祷時間の長短に基準はないので、何をもってお祈りが長すぎるか、短すぎるかを論じることは出来ないでしょう。 それでも、他教派に比べて正教会の奉神礼が長いと感じる人は多いようです。
 おっしゃる通り、イイスス・ハリストスは『山上の垂訓』の中で祈り方について弟子達に教えを与えておられます。 しかしながら、あなたが指摘される主の戒めには少し注意が必要です。聖書本文をよく見直してみて下さい。 この個所でイイススは、正確には『長く祈るな』とは言わず、『異邦人のようにいたずらに言葉を繰り返すな』と言われているはずです。 『異邦人のような祈り』とはどのような祈りなのかを、まず考える必要があるのです。
 人間に対して自らを啓示し、時には『親しい友人』(出エジ33:11)のように語りかけるイスラエルの神と違い、異教の偶像神はけして人に言葉をかけることはありません。 偶像とは石や金属で出来た神であり、時には太陽や星、他の動物等であったりしますから、人間と問答が成立しないのは当然と言えます。 結果的に偶像信仰の祈りは、祭る側の人間が一方的に語りかけるものとなります、主張や想像に基づいた言葉が全てを占めることとなるのです。

『・・・朝より昼に至るまでバアルの名を呼びて「バアルよ我等に答え給え」と言えり。然れど何の声もなく又何の答えうる者無かり・・・』(列王記上18:26)

『諸々の国の偶像は白銀と金にして、人の手の業なり・・・口あれど言わず、眼あれど見ず、耳あれど聞かず・・』(詩篇135:14-17)

 ハリストスが戒められた『異教徒のような』祈りとは、このようなものなのです。 イスラエルの信仰と偶像信仰の最大の違いは、人間が聞く立場になれるかどうかにあると言えるでしょう。 ヘブライ人は常に神の言を『聞く』態度を重視してきたことは、イスラエルの信仰と異教の信仰を峻別する上で重要な鍵となります。 このことは、旧約聖書の随所に見る事が可能です。 ユダヤ人ならば誰でも知っていると言われるほど重要視された申命記六章の教えは『シェマーイスラエル』と呼ばれていますが、これは『イスラエルよ聞くべし』と言う意味です。 また、イスラエルの歴史において重要な働きをした預言者といわれる人々も、語る以前に神の言を『聞く』達人であったことは常に留意しなくてはなりません。 この姿勢は、新しい『神の民』である教会においても、異なるものではないのです。
 こうした視点で改めて正教会の奉神礼を見てみますと、信徒が『異教徒のように』自分の言葉で祈る場面がほとんどないことに気がつきます。 祈祷時間そのものは時に数時間に及ぶ長いものとなりますが、大半は聖職者・誦経・聖歌を通じて聖書や祈祷書の言を『聞く』時間に割り当てられていることに気がつくはずです。 それらはいずれも預言者や聖人を通して神が語られた言であり、イスラエル時代を通じて継承された『神の言を聞く』姿勢がしっかりと受け継がれている証となっているのです。 個人的な言葉で祈る時間だけを比べるならば、むしろプロテスタントの方が長いのではないでしょうか。
 『山上の垂訓』で主イイススが戒められたのは、単純な時間的長短ではありません。 祈祷が自己中心的な内容と言葉で埋め尽くされないよう、絶えず聞く姿勢を失うな、という真意が含まれます。 正教の信仰は『語る』以上に『聞く』信仰であり、『見る』信仰です。 イコンや聖器物を眼にしながら、長い歴史を通じて神が人間に語った言を聞く時間は、いくらあっても長すぎることはないはずです。



【質問】

教会では神は全能者である、と教えられます。ではなぜ神はこの世に悪をはびこらせているのでしょうか?

【回答】

 この類いの疑問は、非常に多くの方が持たれるものと考えます。 神が本当に存在するなら、この世にはびこる悪を一掃しているはずだと言うわけですが、 はたして自分達に都合よく動いてくれないから「神は存在しない」「全能者ではない」と決めつけられるでしょうか?
 聖書によれば、元来神はこの世に『悪』を創造されませんでした。 悪は神以外に自由意志を持つ者が、二次的に生み出したものです。その大半は人間に由来するものです。 そうした事実を無視して神に『悪の掃除』を期待し、その通りにならないから神の存在を否定することは、人間の罪深さの証明と言わざるを得ません。 神は『便利屋』ではありませんし、人間の責任を度外視されるほど『人の良い』存在ではないのです。
 神がこの世の悪を放任されるのは、人間を自由な意志を持つ者として創造されたからです。 全能の神が介入すれば、確かにこの世から悪は一掃されるでしょう。 これはたいへん人間に都合よいことに思われますが、一方で自由なる者の尊厳と責任を無に帰す行為とも言えます。
 聖書に基づけば、人間は神御自身に似せて創造された、いわば特別な存在です。 神が自由であるように、人間にも自由意志・創造力が付与され、何よりも造物主の存在を認識できる能力が与えられていることになります。 人間は神に願い事をするだけではなく、神からの申し出に応えるべき存在でもあるのです。 人間が生み出している多くの破壊的行為は、神の意図に沿わない事を忘れるべきではありません。その責任を神に押し付けることは、本末転倒といえます。
 神が与えた自由意志と創造性があるからこそ、人間には無限とも言える可能性が与えられているのです。神は、それを奪う事をけしてなさらないでしょう。 しかしそれは同時に、人間には他の生き物にはない責任と尊厳が負わされている事をも意味します。 悪は人間が神から離れて神の似姿を見失い、自由意志を悪用する事から始まります。 それは破壊的な結果をもたらしますが、自由意志の結果には違いありません。 その結果に責任を負うのは、当事者以外にあり得ません。責任は、自由と尊厳の裏合わせです。 神が人間が招いた破壊的結果に関与し、その収拾を引き受けることは、自らが創造した人間の有り方を否定する『自己矛盾』と言えるのです。
 しかし、神が完全に悪を見捨てているかと言うと、そうではありません。 確かに神は『便利屋』のように、無条件にこの世の悪を滅ぼす事はしませんが、「悪とどのように向き合うべきか?」は教えられています。 その鍵は、聖書に記されていると言えるでしょう。 特に人となられた神・イイスス・ハリストスの生涯には、本来の自由意志のあり方と、悪への対処を知る手がかりがあります。



【質問】

正教会では来世でも『その人らしさは失われない』と教えています。私はさえない『ブス』なので、あまりこのことがありがたくありません。

【回答】

 確かに神の国が到来した時、人間は与えられた「その人らしさ」を失う事なく永遠の生命を与えられるでしょう。 「美しさ」も、永遠を基準とした美となるはずです。
 人間の顔の美しさは、永遠に属する美でしょうか。 もし顔の美醜が、神の似姿を獲得する上で重要な要素であるならば、「ブス」は修復されるべきものになってゆくでしょう。 しかし、そのことに関して決定的な答えを出す事はできません。 ブスか美人かの客観的区分けはできません。好まれる美顔は、時代や地域によっても大きく異なるからです。
 はっきりしているのは『人間は神に近づく過程を歩む時最も美しい』というのが、教会の価値観であるということです。 肉体の美しさは、年をとる事で失せてゆきます。その時人を美しくするのは経験と知恵、人徳といわれますが、それも美しさの絶対的基準かは分かりません。 いずれにせよ、変わりゆく「美しさ」に絶対的価値観をおくことは、神の国とは対極の習慣といえます。
 今回の質問の焦点は、顔の美醜以上に、「美しい」もしくは「ブス」と決めこむ価値観と、絶えず変化する世間の尺度で来世を測ろうとする誤謬にあると言えます。 神の国において、こうした価値観が残るとは考えにくい、と言わざるを得ません。 もし本当にあなたが来世で生命を得るならば、『さえないブス』を気にする心は失せているはずです。



【質問】

ヨーロッパの信仰であるキリスト教に日本人が救えるはずはない、日本には神社仏閣で十分だと言われました。どのように考えればよいのでしょうか?

【回答】

 確かに世界各地の民族、地域には土着の宗教があり、そこには固有の「神」がいます。 しかし、旧約聖書に登場するようなこの世の完全な創造者と言う神は見当たりません。 それらはいずれも多神であったり、人間と同じ被造物(動物や自然現象、天体など)を神としてあがめているものが大半です。
 それに、キリスト教はもともと西欧の宗教ではありません。 信仰の発祥はハリストス(キリスト)の復活に由来しますが、これはエルサレムで起こった出来事です。 イイスス(イエス)御自身はユダヤ人でしたし、今日絵画などで見られる金髪碧眼のヨーロッパ人風のキリスト像は、後の時代に作られたものです。 初期の伝道も中近東やバルカン半島、東アフリカから始まりましたが、これらはいずれも東洋の文化圏に属しています。 いわゆる『西欧』とは近代化の発祥地を指しますが、これは15世紀頃に始まりを見ることが出来ます。教会は、そのはるか以前から存在していたのです。
 キリスト教は始まりから民族を越えて、全人類に普遍的な信仰となる性格を持っていました。 その意味で、キリスト教を西洋の信仰と限定的にとらえるのは完全に誤った理解であるといえるでしょう。
 色々な説明は出来ますが、「なぜ正教を信じなくてはならないのか?」と言う問いかけの最も簡潔な答えは、 正教のみが本当の神を教えているからに他ならない、と言うことにつきるでしょう。 人間は「神の似姿」を持った存在として、神に近づくべき存在です。 真の神に一致することは、人が本来歩むべき道を歩む上で、最も重要で基本的なこととなるからです。



【質問】

友人と議論している時「愛は、この世の経済においてなんの役にも立たない」と言われて、とても悲しくなりました。 愛を説くキリスト教では、どう教えているのですか?

【回答】

 経済とは、もともと人間が作り出した制度であり、現在では貨幣をその媒体に置いています。 人間が物質に依存する生活様式をもつ以上、経済とどう関わるかはとても大切な課題となります。 それだけに、経済は人間のためのものであり、人間が「主人とする」べき対象ではない点は、しっかりと押さえておくべきでしょう(ルカ16:13)。
 福音書を良く読むと、主イイススはお金や財産に関するたとえ話を大変多くしていることに気がつきます(マタイ25:14-30、ルカ16:1-13等)。 これは単に金銭への配慮が内面的心の現れである、と言う道徳的な教え以上の意味を持っています。 経済が「買う者」「売る者」の間の関わりで成り立つように、信仰もまた神と人、信徒と信徒の関わり合いで成り立つものだからです。 経済活動と正教会の信仰の根本には、相通じるものがあるのです。その点を考えれば、しっかりした信仰を持つ人が、金銭に無頓着であることは考えられません。 同様に、本当に経済のことを良く知る人、お金もうけのうまい人は、人間同士の信頼や義理・人情を大切にする人である、と言えるのではないでしょうか。
 経済は大切ですし、教会はこの事を否定するわけではありませんが、人の心と経済を比較した上で、「どちらが大切か?」と議論する事は、本来的外れと言えます。 これは、キリスト教の信仰云々以前の問題であるとも言えます。
 経済やお金を軽視する姿勢は現実的とは言えませんが、人間に感情がある以上、人間の生活に根差す経済をたてにとって、 人間の心に内在する愛を否定する姿勢はナンセンスに思われます。





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